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大阪城の歴史

現存する大阪城は、かの有名な豊臣秀吉時代の元は異なります。
実際に、どんな歴史を大阪城はたどってきているのかを、ここでは紹介していきます。
たくさんのサイトからの引用にはなりますし、万が一間違いがあるかも知れません。
個人サイトですので、あくまで参考にしてください・・・。

石山本願寺時代の大阪城

石山本願寺の繁栄

明応5年(1496)、本願寺8世法主蓮如が山科本願寺の別院として
大坂御坊を建立し、これが石山本願寺の起源となった。
その経緯を述べた蓮如の御文章は「大坂」という
地名が見られる最初の文献である。

天文元年(1532)、山科本願寺が戦国の争乱に巻き込まれて
焼き討ちに合い、逃れた十世証如らは、翌年大坂御坊を本願寺とした。
この石山本願寺は、堀・塀・土塁などをもうけて武装を固め、
戦国武将細川晴元らの攻撃に備えたため、
次第に難攻不落の城砦として強化された。
また、次第に寺内町も発展し、11世顕如の代に本願寺隆盛の絶頂期を迎えた。

石山合戦

織田信長の天下統一の野望に最も頑強に抵抗したのは
一向宗(浄土真宗)本願寺派の門徒集団であり、
その総本山が法主顕如を推戴する石山本願寺であった。
元亀元年(1570)から11年に及ぶ長い戦争の結果、
天正8年(1580)信長は顕如を本願寺から退去させることに成功したが、
堂塔伽藍は全焼し、現在もこの時代の遺構は謎に包まれている。

『信長記』には、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」
に始まる有名な一節があり、大坂の優れた地勢について詳しく述べられている。
信長は本能寺の変に倒れたが、
この地に築城を期していたことは想像に難くない。

豊臣秀吉時代の大阪城

黄金色の大阪城天守閣

天正11年(1583)、秀吉は石山本願寺跡に
大坂城の普請(築城工事)を開始した。
一般には日本のお城のシンボルは天守閣であるが、
空にそびえる大天守が初めて作られたのは織田信長の安土城である。
信長の後継者を自認する秀吉は、安土城をモデルとしながらも、
すべての面でそれを凌駕することをめざした。

秀吉創建の大天守は外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、
軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用いた。
また、秀吉は自ら好んで多くの来客に本丸内を案内してまわり、
金銀の装飾にあふれた奥御殿の内部、大天守の各階に納められた
財宝の山など、空前の富の集積を誇示して来訪者を驚嘆させた。

築城の規模・・・

秀吉の大坂城は、本丸の築造に約1年半を費やし、
その後も秀吉が存命した15年の全期間をかけて、
徐々に難攻不落の巨城に仕上げられた。
また、城づくりと同時に町づくりが行われ、
秀吉時代の大坂は近世城下町の先駆けとなった。

領主の邸宅である城を中心とした広大な領国の首都、
そして政治・経済・軍事・文化の中心都市として
城下町大坂が建設されたのである。

秀吉の大坂城本丸は、現在も残る徳川幕府再築のものとは
堀の形状や天守の位置も全く異なり、
二重三重の複雑な石垣が立体的に構築されていた。

大阪冬の陣

秀吉の死からわずか2年後の慶長5年(1600)、
徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した。

慶長8年、家康は江戸に幕府を開き政権を掌握したが、
豊臣家は徳川幕府成立後も天下掌握の夢を捨てられず
徳川家との間に緊張関係を持続させていた。
こうした状勢のなか、京都東山に豊臣秀頼が再建した
方広寺大仏殿の鐘銘(釣鐘の銘文)に家康がクレームを付けたことを
きっかけに、慶長19年(1614年)大坂冬の陣が開戦された。

約10万の豊臣方は軍勢の大半が浪人衆の寄せ集めで
統制力に欠けていたにもかかわらずよく防ぎ、
攻めたてる徳川方20万の大軍を惣構の中へは一兵も突入させなかった。
秀吉が築き上げた天下の名城は、やはり難攻不落の堅城だったのである。

しかし、講和による終戦の結果、
大坂城は講和条件であった惣構・三の丸の破却に続いて
強引に二の丸の堀まで埋め立てられ、本丸ばかりの裸城にされてしまった。

家康は銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」の二句をとりあげ
「家康の文字を分断し、豊臣を主君として楽しむとの下心がある」と難くせを付けた。

大坂夏の陣

大坂冬の陣講和によって城を裸城とされた大坂方は、
埋められた堀の掘り起こし等の復旧工事を手がけた。
これが再軍備とみなされ、冬の陣からわずか5カ月余りで夏の陣開戦となった。

慶長20年(1615)の夏、河内方面、大和方面から攻め上ってくる
徳川方15万5千余りの軍勢に対し、豊臣方は防御の
薄くなった大坂城では籠城作戦がとれず、
敵の大軍が一つに合流する前に撃破することとした。

5月6日早朝大阪方は河内方面に兵を進め、先制攻撃を仕掛けたが、
結局は大坂城へ退却せざるを得なかった。
そして、その翌日、決戦の場となった大坂の町中を
悲惨な混乱に巻き込みつつ、ついに大坂城は落城したのである。
さらに、翌8日、山里曲輪にひそんでいた
豊臣秀頼・淀殿らも発見されて自刃、豊臣家も滅亡するに至った。

徳川時代の大阪城

大阪城の再建

大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、
家康の孫である松平忠明に与えられた。
忠明は、大坂の町の復興に努めたが、
この間、大坂城の本格的な再建はなかったと考えられる。

元和5年(1619)大坂は幕府直轄領となり、
翌6年(1620)2代将軍徳川秀忠により大坂城再築工事が起こされ、
3期に渡る工事を経て3代将軍家光の時に完成した。

大阪城再建の経過

秀忠は普請総奉行に選ばれた藤堂高虎に、
「石垣を旧城の2倍に、堀の深さも2倍に」と強調したという。

築城工事のうち、堀の掘削や石垣の構築は西国と北陸の諸大名64家が
幕府の命を受けて担当し、建物の建設は幕府の直営で行われた。
元和6年から始まる第1期工事では、
東・北・西の外堀の構築と西の丸などの建物
寛永元年から始まる第2期工事では内堀の構築と本丸御殿など
さらに寛永5年から始まる第3期工事では
南外堀の構築と二の丸南部の建物の建設が行われた。

天守の建設は第2期に行われ、その石垣は熊本城主の加藤忠広が築いた。
天守建物は寛永3年の竣工で、外観5層・内部6階、
高さ58、5mに達する巨大な建造物であった。

石造りの巨大なお城

大坂城は、石垣の規模が格段に大きいだけでなく
堅くて良質の花崗岩からなり、しかも要所には、
比類のない巨石が多く使われている城として
全国の城郭のなかでも抜きんでた存在である。

各大名の競争心に加え、築城技術の完成期に再築されたため、
大坂城の石垣には高度に洗練された技術が見られる。

大坂城の石は、廃城となった伏見城をはじめ、
加茂(京都府)や六甲(兵庫県)からも運ばれたが、
特に瀬戸内海の島々は良質の花崗岩の産地として、
多くの石が切りだされ、海路、大坂まで運ばれた。
これらの島にはせっかく切り出されたものの大坂まで運ばれずに
残された石(「残念石」と呼ぶことがある)が見られるところもある。
これらの巨石は、陸上では「修羅」と呼ばれた運搬具によって運ばれたと考えられる。

江戸時代の大阪城

城主の訪れない大阪城

徳川時代大坂城の城主は歴代の徳川将軍であるが、
3代将軍家光が訪れた後、幕末動乱のさなかに
14代家茂が入城するまで230年もの間、大坂城を訪れた将軍はいなかった。

泰平の世に大坂城を守っていたのは、幕府から任命された
城代をはじめとする大名や旗本たちの武士であった。

三度もの落雷

万治3年(1660)城内青屋口の火薬庫に落雷して大爆発が起き
後に幕府は現存する石造りの火薬庫(焔硝石蔵)を建造した。
次いで寛文5年(1665)には天守北側の鯱に落雷、
大天守は竣工後わずか39年目で焼失た。

以後昭和の復興まで266年間、大坂城は天守を欠いた城となった。

さらに天明3年(1783)には城の玄関である大手多聞櫓を
やはり落雷で焼失し、大坂城の威厳は甚だ損なわれることとなってしまった。

大阪城の大修復

天保14年(1843)幕府は大坂・兵庫・西宮・堺の町人らから
155万両を超す御用金を集め、これを資金に大手多聞櫓の再建をはじめ
天守を除く城内すべての建物の大修復工事に着手した。

天保8年(1837)元・与力の大塩平八郎らが
町奉行らの暴政を倒さんがため天満に決起した。
この鎮圧にあたって城兵が出陣し、大坂城は初めて軍事的な機能を果たした。

昭和の復興で数百年ぶりの天守閣が

大阪城天守閣の復興

昭和3年(1928)当時の市長、関一(せき・はじめ)が天守閣復興を提案。
議会の賛同を得て推進委員会が設置されると、
市民から寄付の申し込みが殺到し、わずか半年で目標額150万円に達した。

大戦へ向かう重苦しい時代の中で、天守閣復興は大阪市民に熱狂的な賛同で迎えられたのだ。

当時、豊臣時代大天守の資料はきわめて乏しく、
「大坂夏の陣図屏風」を拠り所に、全国の桃山時代天守の調査
によって細部の資料を集めるなど苦労を重ねた。
また、復興天守閣を永久的なモニュメントとするため、
当時としては最新の建築工法である鉄骨鉄筋コンクリート造りとした。
しかもわが国では前例のない地上55mの超高層建築であり、
設計には多くの困難があったが工事は順調に進み、
昭和6年(1931)11月7日、歴史上3代目の大阪城天守閣が竣工した。

近代建築による復興天守閣の第1号であると同時に、
内部を大阪府下で唯一の郷土歴史資料館として利用するという発想も
まったく独創的なものであった。

第二次世界大戦を超えて

多くの軍事施設をかかえる大阪城は、先の大戦の戦禍を免れえず、
特に昭和20年(1945)の空襲では、京橋口多聞 をはじめ、
二番・三番・伏見・坤の4櫓などを焼失した。

終戦後、3年近く占領していた米軍から大阪城地が返還されて以来、
大阪市当局により市民のための大阪城公園整備の努力が続けられた。
破損した石垣や、戦災に加えて昭和25年(1950)ジェーン台風で
甚大な被害を受けた城内の古建造物の修復など、戦後の復興には
募金活動を含め官民挙げての取り組みが行われた。
その後も今日までたび重なる修復・再建工事が続けられ、
都心の真ん中の広大な史跡公園として整備されている。

平成の大改修と大阪城

象徴性を守りつつ、ハイテク工事で大修復

復興天守閣も60数年の歳月を経て老朽化が進み、
平成7年から9年(1995〜1997)にかけて大規模な改修工事が行われた。
建設当時の姿を甦らせて21世紀に残すことを基本指針とし、
古いものを生かしながら新しい部材を補う、
最新技術と非常に高い施工精度が要求される改修工事となった。

屋根と外壁の改修工事

◆屋根の工事

屋根は緻密な防水工事と銅板瓦の葺き直しが実施された。
軒先金箔瓦(軒丸瓦、軒平瓦)はすべて新調され、
緑青あざやかな銅板瓦(丸瓦、平瓦)は約55,000枚すべてを一旦撤去し、
8割が清掃・修復のうえ再使用された。

◆外壁と軒裏の改修工事

外壁は従来の壁を生かしながら剥落防止処置として
ピンネット工法で下地処理され、1〜3層は漆喰塗り、
4層は墨入りセメントモルタル薄塗り仕上げで仕上げられた。

建具や金物などの改修工事

◆アルカリ回復工事

将来の鉄骨鉄筋の腐食を防止するため、
コンクリート内部にアルカリ溶液を浸透させる
最新の電気化学的工法が採用された。
塗布材による防食補修工法も併用し、コンクリートの耐久性が確保された。

◆建具及び高欄改修工事

窓等外部建具は全て耐久性に優れるカラーステンレスで新調された。
また、8階展望階の高欄も黒色の自然発色が美しい
ステンレス製のものが新調され、回廊の床面も御影石貼りで改修された。

◆錺金物改修工事

大阪城の比類のない装飾的な特徴である伏虎と鯱は
一時撤去の上、修理されて純金箔を3度押し、
その他の錺金物は2度押しされて改めて取り付けられ、
燦然と輝く黄金の輝きが甦った。

内部改修工事

内部改修仕上げは、各フロアの内装が風格のあるデザインで
美しく一新されたにとどまらず、大人数の観覧や高齢者・身障者への配慮から
展示空間の動線や照明、エレベーターの延伸・新設など設備や機能面も改善された。

構造補強工事に関しては、レベル2(烈震)を想定した
耐震補強工事として、1〜4階に鋼板耐震壁を新設して
大阪城の大黒柱を築造し、柱や梁には炭素繊維(カーボンファイバー)や
鉄筋を巻き付けて補強を施した。

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